スミスが製造した最も古い腕時計のひとつとして知られる、925スターリングシルバーで誂えられたスクエアクッションフォルムのケースに、いわゆる「プレ・デラックス」仕様の初期デザインを採用した腕時計。

当時のカタログやその他の資料には全くその姿を見せることがなく、その個体は全て〈インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)〉という英国の化学工業会社が社員の退職記念に贈られたことを示す刻印を持ちます。ごくまれに姉妹会社の「インペリアル・メタル・インダストリーズ(IMI)」の場合がありますが、ほとんどICI社によるもの。

現存する個体の多くは1946年から1948年製ということで、スミスが腕時計の製造販売を開始した年とほぼ一致します。しかしながら当時の広告・カタログには一切載っていないため、おそらく一般販売はされず上記のICI社もしくはIMI社が社員への贈呈用にのみ製造され在庫されていたものと思われます。

 

 

これまでadvintageでは、スミスの腕時計の中で一際異彩を放つ、この銀無垢クッションケースモデルについて調査してきましたが、その出自については謎でした。しかし最近新たに入手したスミスの研究書を紐解いてみると、その謎についてある程度明瞭な情報が語られていたので、ここで共有しておきたいと思います。

ICI社、つまりインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(Imperial Chemical Industries Ltd.)は第二次世界大戦以前に、英国のウォッチメーカーであるロザラム社(Rotherham & Sons)と腕時計の製造契約を結んでいました。当時腕時計の製造は、ムーブメントのみならず文字盤や針類、ウォッチケースなど、腕時計を構成するパーツごとに異なる専門メーカーが存在していた分業体制で出来上がっており、この時ICI社はロザラム社を通じて、資材として英国のウォッチケース専業メーカー〈デニソン・ウォッチケース・カンパニー〉の銀無垢クッションケースを大量に購入したと言われています。ちょうどadvintageがオリジナルのウォッチベルトを製造する際、材料となる革を職人さんを通じて仕入れておくのと同じですね。

 

» デニソン・ウォッチケース・カンパニーについて

 

しかしながら戦後になるとロザラム社の事業経営が悪化し、時計メーカーとして事業を続けていたものの、ICI社との腕時計製造契約が頓挫してしまい、その製造契約は1949年頃にデニソン社に引き継がれたようです。このモデルがスミスの製品カタログに一切出てこないのはおそらくそのためで、デニソン社がスミスのムーブメントや文字盤等の部品をスミスから買い取ってICI社との製造契約を履行した可能性が濃厚です。

また裏蓋に刻まれた贈呈社の退職年を示す数字を見てみると、その多くは1940年から1944年で、つまり第二次世界大戦中の年号が目立ちます。それらはスミスが腕時計のリリースを発表する以前のことで、おそらく戦中から戦後すぐの混乱期を経て遡及して退職記念行事や贈呈が行われたことが推測されます。

このスミスの925スターリングシルバーのクッションケースモデルは、その後サイズを30mmから28mmと小型化し、シルバーツートーンの文字盤にルミナス(夜光塗料)のアラビア数字と時分針をセットしたデザインにモデルチェンジします。このモデルは1960年から60年代の後半頃までリリースされましたが、そのデザイン性はむしろ1940年代のそれで、スミスのクラシックデザインへのこだわりが垣間見えます。

 

 

ICIは1970年後半まで、スミス以外にも英国の宝石商〈ガラード〉や、スイスのウォッチメーカー〈ビューレン〉にも同様にプレゼンテーションウォッチを発注していましたが、スミスの腕時計においてはニッケルまたは金メッキ仕上げの15石と16石の1215ムーブメントを搭載した小型のクッションケースモデルを製造していたようです。

ただし1967年2月にデニソン・ウォッチケース・カンパニーが倒産した後は、これらのモデルはBWCダイキャストまたはプレス加工の軽量なシルバーケースに変更されます。1970年末のICIのプレゼンテーションウォッチの最終ロットには17石のセンターセコンドムーブメントの27CSを搭載したアストラルがクッションケースモデルで製造されていますが、デニソン社はすでに存在しないため裏蓋に刻印される製造元は当時のスミス・グループの時計部門”SMITHS CLOCKS & WATCHES”を意味する「SCW」の文字が見られます。

スミスがこうした当時の英国企業の社員向けの贈答用腕時計の別注を受けることは少なくないことで、実際にブリティッシュ・レイルウェイズやガス会社といったインフラ系、あるいはローバー、モーリス、フォードといった自動車関連企業などを中心に、極めて多くの企業がスミスに別注時計の製造を依頼していました。

ちなみに、ICI社が頑なにこだわった銀無垢クッションケースモデルを除き、そのほとんどが金無垢ケースを採用しています。ここでひとつ疑問なのが、戦後10年かそこらでこれだけ多くの金無垢時計を一般の英国人が買えるだけの購買力が当時あったのか、ということ。おそらく当時一般販売されたスミスの腕時計で実際に売れていたモデルの多くは、より価格の安いメッキ系のケースと思われますが、戦後沸き起こった英国製品を購入する運動、”Buy British”のムーブメントが追い風となって、多くの英国企業からの、いわば’B to B’的な取引がスミスの腕時計部門を潤していたのではないかと、個人的に推測しています。