「探検家の腕時計」というとまず思い浮かぶのはロレックスだと思います。ロレックスは過去度重なる極地探検の舞台に自社製品を供給し、その高いスペックと信頼性を揺るぎないものにしてきたからこそ、現在の不動の地位を築くことができたといえます。古くは1927年のメルセデス・グライツがドーバー海峡を泳いで渡るという興行の際にも、ロレックスのオイスターケースの防水性を周知させる格好の機会として利用するなど、今でいうインフルエンサーを活用したブランディングが非常に優れていたことも要因のひとつと考えられます。

ですがそれはロレックスだけではありません。他のウォッチブランドも、1930年代から始まり国家事業的な規模も珍しくない探検活動に自社の自信作を知らしめるチャンスと踏んでいました。

その中で最も有名なのが、人類初の登頂を成し遂げた、ジョン・ハント率いる英国のエベレスト探検でしょう。そこで支給されていたのがロレックスのエクスプローラーであることは広く知られていますが、実はこの遠征隊にはスミス社製の腕時計、目覚まし時計や酸素ボンベ、圧力系などその他機材が支給されていました。さらに、実際にその頂に立ったエドモンド・ヒラリー卿が身につけていたのは、他でもない、スミスのクロームメッキ・アクアタイトケースのデラックスでした。実際にはロレックスの腕時計はエベレストの人類初登頂の際にその頂に立ったわけではなく、その後のロレックスの広告などをよく見ると、非常に巧妙かつ慎重な筆致でその部分を明言しない形で説明されているのがわかります。

 

 

スミスは、自社の腕時計の信頼性の証として「ダブルプルーフ・テスト」を掲げていました。つまり、12日間に及ぶ自社工場でのファクトリーテストに加え、局地探検に代表される厳しい実地テストの両輪で、スミスの腕時計の精度の高さを維持する努力が行われていました。エベレストはその第一歩にして最大の偉業として、スミスは自社広告でもヒラリー卿の言葉を引用して語っています。

”I carried your watch to the summit. It worked perfectly”

 

 

エベレストに続いて、1954年から55年にかけて行われたノルウェーのリンゲン北極圏調査隊に、エベレストでヒラリー卿が着用した、いわゆる「ヒラリー・パターン」の後継機種、”A404 DE LUXE”を4本供給。隊長を務めたN.C.ネグリは、60日間の探検を通してスミスの腕時計の高い精度は保たれ、わざわざ時刻合わせをする必要がないほどだったと、その信頼性を語っています。

 

 

1956年には、1/5秒のチャプターリングを備えた同様の27.CSセンターセコンドモデル、”A454 DE LUXE”が、S.ウィグナル率いるウェールズ・ヒマラヤ遠征隊で使用されました。彼はその手紙に「6,500マイルにわたるインドへの道、そしてヒマラヤにおいて、スミスの腕時計は最も困難で過酷な状況下であらゆる満足を与えた。中国共産党軍に2カ月もの間捕虜として捕えられたときでさえ」と述べています。また、「この時計は、アフガニスタンのカンダハルにおいて気温華氏117度の環境下でも、そして19,700フィートのオライ・レクで華氏37度の寒気の中でも問題なく使用できていたし、ボスポラス海峡やエーゲ海を泳いだ際にも水没することがありませんでした」とも書いています。

 

 

さらに1955年から58年にかけて行われた、英国のヴィヴィアン・フックス卿率いる南極横断遠征隊には、スミス社の車両加熱部門が開発したディーゼル燃料燃焼加熱システムを搭載したアメリカ・タッカー社のキャタピラ牽引車「スノーキャット」が投入されたほか、サーモスタット、スパークプラグ、ディーゼルヒータープラグを提供する一方で、同じくスミス社の産業機器部門もエンジンプルーフメーター(回転計と稼働時間の組み合わせ)やソリの走行距離計、研究用の「タイマー」に加えて、「タイムピース」つまり腕時計が供給さえました。ヴィヴィアン・フックス博士とエドモンド・ヒラリー卿は、この南極横断探検のためにキャリバー27.CS.を搭載したセンターセコンドタイプの「アンタークティックモデル」、”A460/S DE LUXE”を装備しました。

 

 

スミスの1958年のパンフレット(1957年末に発行)には、他の探検での使用も記録されています。カンチェンジュンガ偵察(ネパール、28,208フィート)、オーストラリア・南極探検(1954年)、ニュージーランド・カラコルム探検(1961年)、RAF・ヒマラヤ探検、サハラ探検、第二次英国・サウスジョージア探検(1954-55年)です。また、1957/58年のラホート冬季遠征(イエティ狩り)の記載もありました。

このように、1950年代を中心にスミスは度重なる極地への挑戦を重ねていましたが、1970年代にはクォーツショックにより時計部門が廃止されます。もともとスミスの時計関連事業は数多くある事業の一部門に過ぎないため、英国の巨大エンジニアリンググループカンパニーであるスミスにとっては損切りのようなものだったのかもしれません。

近年、特に本国の英国におけるスミスの価格相場の高騰がものすごい勢いとなっているのを目の当たりにして辟易していますが、こうしたスミスの黄金時代のロレックスに迫る、あるいは一部ではそれを凌駕する勢いで進められていた極地への挑戦とその成功が、ようやく今になって再び正当に評価されつつある、その結果と言えるのかもしれません。