1883年 スイス時計製造会社として設立
1890年 本社をスイス・ビエンヌに移転
1901年 ユニオン・オルロジエール(Union Horlogère)に改名
1909年 ドイツ・グラスヒュッテにアルピナ精密時計工場(Precisions Uhrenfabrik Alpina)を設立
1917年 ユニオン・オルロジェールが解散。ドイツ法人"Alpina Deutsche Uhrmacher Genossenschaft"設立
2002年 商標権をスタス社(フレデリック・コンスタント)が購入
■「スイス時計師協会」(Vereinigung der Schweizer Uhrmacher)
スイス・ヴィンタートゥールの時計職人ゴットリープ・ハウザー。彼が1883年にチューリッヒで開催された国内向けの時計展示会に伴って設立したのが「スイス時計師協会」(Vereinigung der Schweizer Uhrmacher)で、後の〈アルピナ〉の母体となる、スイス時計産業に大きな影響力を誇った団体の歴史の始まりです。

 

 

 

 

 

■19世紀後半の時計産業
この協会を詳しく語る前に、その設立の背景、19世紀後半の時計産業の構造をまず理解する必要があります。早くも1860年代に大量生産を選択し、ウォルサムとエルジンの2社への強力な集中という特徴を持つアメリカ時計産業とは異なり、スイス時計産業は20世紀を通じて多数の中小・零細企業あるいは個人によって担われ、かつ地理的にも分散的な構造を維持していました。この傾向はおそらく、同族経営的な様式を保持したいという願望に大きく根ざしていたと思われます。
当時スイスの時計産業は、アメリカの成果に触発され徐々に製造工程が機械化され、工作精度が向上しつつあったもののやはりまだまだで、時計を販売する前には通常まず時計を分解し、歯車の噛み合わせやムーブメントの他の部分をチェックし、必要に応じてすべてを作り直していました。また、中小の時計メーカーやディーラーはスペアパーツの在庫を確保するのにもコストや手間がかかり、購入した商品の品質の良し悪しを判断するのも大変。さらに修理で必要な古い部品を交換する作業も、新しい部品を都度職人が修正するという始末。
このような問題に直面し、ハウザーが提言したのが「スイス時計師協会」でした。同協会の目的は大きく二つあり、それは第一に、一貫して高品質を保った時計・部品を供給すること、そして第二に、中小の時計メーカーや職人でも共同で大量に購入することにより有利な条件で交渉できるようにすることでした。このコンセプトは瞬く間に受け入れられ、多くの時計製造の会社や個人が時計の部品を購入するためにこの組合に参加しました。

 

 

 

同時に販売チャネルにおいても、徐々に消費者協同組合や百貨店が市場で存在感を増してくると、競争の激化によって中小規模の小売業者は特に大きな打撃を受けました。そこで協会は製造を組織化することで独自の高品質なキャリバーを開発し、販売網を拡大。その成功は極めてスピーディに展開し、ドイツだけでなく東欧や北欧にも代理店が設立されました。
それまで呼称として用いられていた〈アルピナ〉という名称も、1901年に商標として登録されました。
創業から20年を数えるまでに、この「スイス時計師協会」は法律上の理由から何度か名称変更を行っており、1886年に"Schweizerische Uhrmacher Genossenschaft"(スイス時計師協同組合)、さらに1904年、合同会社化によって"Union Horlogère, Uhrenfabrikation und Handelsgesellschaft, Biel, Glashütte, Genf"、つまり〈アルピナ・ユニオン・オルロジェール〉がここに生まれました。

 

 

■"U.H."の機能
ユニオン・オルロジェールへの入会は、スイス在住の時計師であれば誰でも会員になることができました。ただしそれには申請が必要で、取締役会によって慎重に検討され、そこで承認されると入会金5フランと保証金500フランを支払うことで会員になることができました。会員になることで、各代表者はアルピナの時計をリーズナブルな価格で購入できるだけでなく、他の多くの特典を受けることができました。同時に協会は「アルピニスト」と呼ぶ会員の利益のために懸命に努力し、最大の成長を促す手助けをする非営利団体のような存在だったと言えます
協会では不当な値引きを避けるために、協会が定めた価格を各会員が守ることが義務づけられていました。またアルピナの時計の広告は、購読料、参加料、サプライヤーの売上高に応じて算出される補助金などの共益費から全額払われていたため、会員にとっては負担の軽減になりました。
品質保証についても協会は連帯して行います。1908に年には、スイスのネットワークでアルピナ ウォッチを販売するすべてのショップで有効な保証書が発行され、さらに1926年には国際的にも有効となります。そのほか協会は定期的に委員会を開いたり、販売や技術研修のセミナーを開催し、アルピニスト等を積極的にサポートしました。また年に一度、2日間の見本市のようなミニフェアを開催し、そこでは世界中から集まったアルピニストたちが新製品をみることができたり、事前に注文したりすることができたほか、メンバーが問題や経験を共有し、長期にわたる強い友情を築くことができる社交的なイベントでもありました。この活動によって、いわば家族的な相互扶助を持ちながら、ヨーロッパ全土に開かれた巨大なネットワークに成長しました。
そのほか協会の原則として会員となる販売店は各地域1店舗のみというものがありました。こうした同地域におけるバッティングを避けるブランディング手法は現在では一般的ですが、当時は目新しいものでした。
■主な参加メーカー
その後同協会のオリジナルキャリバーの製造の中心的存在であったのが、ビエンヌのシュトラウブ(Straub)社が提案した"Société des fabricants d'horlogerie suisse réunis"(スイス時計工業会)という製造業者中心の団体が設立されると、アルピナ・ユニオン・オルロジェールの名称も新たに"Union Horlogère, Schweizerische Uhrmachergenossenschaft, Association horlogère Suisse"と改称されました。
「スイス時計工業会」はスイスの各時計部品メーカーや組立て工場への発注を取りまとめることで、価格の適正化が図られました。そこに参画した企業は現在もヴィンテージウォッチ市場でしばしば目にするそうそうたるウォッチメーカーが並んでおり、例えば時計の完成品を扱うビエンヌのシュトラウブ&カンパニー社、ジュネーブのマーク・ファーブル社、グレンヒェンのキュルト&フレール社(後のサーティナ)、ラ・ショー・ド・フォンのシュウォブ&フレール社(後のシーマ)、ヴィルレのロベール&フレール社(後のミネルバ)そして各種部品メーカーからはジュネーヴのデュレ&コロンナズ社(エボーシュ)、ユグナン=ロベール社(ケース)、アリ・ジャネロー社(懐中時計付属品)、ヌマ・ニコレ・エ・フィス(文字盤)などが挙げられます。
1908年に創業25周年を迎えたアルピナ・ユニオン・オルロジェールは、1901年から生産を開始していたブレゲヒゲゼンマイやバイメタル式補正テンプを使用する高品質キャリバーの時計ブランドとして「アルピナ」の名前を正式に登録。メンバーはこの「アルピナ」という名前を、厳選された12種類のキャリバーと、これらのムーブメントを搭載した時計にのみ使用することに合意しました。 そして同時に20世紀という新たな時代においては、キャッチーな名前だけでなく目を引く特徴的なロゴを新たに作ことが必要でした。それは赤い三角形の内側に文字盤とブランド名が意匠化された形で作りあげられ、後にこのロゴはアルピナの独占販売店を明確に示すものとなりました。

 

 

 

 

 

■ドイツにおけるアルピナ工場
アルピナ・ユニオン・オルロジェールは、1890年の時点でドイツのコンスタンツに子会社を設立しており、当時すでに200社以上のドイツ市場の顧客に商品を提供していました。その後1892年にフランクフルトのBecker & Cie.がドイツの子会社を買収、1899年には首都ベルリンに本社を置く総合代理店へと発展しました。同社は独立した会社として戦後急速に事業が拡大。1916年締結された契約では契約がスイスのユニオン・オルロジェールからアルピナブランドの使用権が与えられていました。
 

■アルピナ グラスヒュッテ 1909 – 1922
当時アルピナ・ユニオン・オルロジェールは、スイスのビエンヌとジュネーヴに加え、フランスのブザンソン、そしてドイツのグラスヒュッテに製造拠点を持っていました。グラスヒュッテでは1909年に"Precisions Uhrenfabrik Alpina Glashütte in Saxen"(ザクセン・グラスヒュッテ アルピナ精密時計工場)を設立し、1912 年に最初のグラスヒュッテ製ムーブメント、「アルピナ・クロノメーター・グラスヒュッテ」が完成しました。これは典型的なスイス製のアンカー脱進機ではなく、グラスヒュッテ製のレバー脱進機を備え、ムーブメントの表面には高品質のゴールドコーティングが施されたアルピナ製のクロノメーター・エボーシュを搭載していました。これらの時計の文字盤には、"Precisions Uhrenfabrik Alpina Glashütte i.S."と記されており、完成翌年の1913年にはドイツ海軍が購入した 21インチのマリンウォッチもアルピナ・グラスヒュッテが手掛けていました。

 

 

 

これに反旗を翻したのが、グラスヒュッテ時計製造メーカーの雄〈ランゲ&ゾーネ〉です。
アルピナ・グラスヒュッテの時計は、ランゲ&ゾーネの時計と直接競合するようになりました。1913年、ランゲ&ゾーネは危機感を感じ、すべての部品がグラスヒュッテで製造されているわけではないという理由で、アルピナを止めようと裁判を起こしました。1915 年にはランゲによる裁判は取り下げられたものの、その間に第一次世界大戦が始まり、グラスヒュッテのアルピナ工場にも影響が出てきました。戦時中の輸入規制により、スイスから工場に部品を送ることはほとんどできなくなり、また資本の流れにも大きな制約がかかった結果、1922年7月17日、アルピナ・グラスヒュッテは解散を余儀なくされました
2度の世界大戦を経て
第一次世界大戦中は様々な困難がドイツのアルピナ・グラスヒュッテに襲いかかりました。当時連合国軍はスイスとドイツのビジネス関係に不満を持っていて、スイスのアルピナ工場とドイツの顧客との関係は強い圧力にさらされていました。1917年にアルピナ・ユニオン・オルロジェールは解散します。また1922年にアルピナ・グラスヒュッテも解散しましたが、それらを再編する形で新たに独立した3つの会社を生み出しました。つまり、スイス・ビエンヌの"Union Horlogère SA"と、ドイツ・アイゼナハ(1927年にドイツへ移転)の"Alpina Deutsche Uhrmacher Genossenschaft G.m.b.H."、そしてスイスのアルピナ会員を取りまとめる"Alpina Association des Horlogers Suisses"という協会を新たに設立。第一次世界大戦後、この3法人各社の活動は飛躍的に活発化し、販売チャネルはリスボンからコペンハーゲン、モスクワまでヨーロッパ全土に及ぶ2000のリテイラーによってアルピナの時計が販売されまでになりました。
しかしながら第二次世界大戦が勃発すると、国際的なユニオン・オルロジェールの活動は再び精査の対象となりました。またしても輸入、旅行、資本の流れに制約が及び、潜在的な活動の範囲を大幅に縮小させました。連合国による制約の最たるものは、スイスのアルピナ・ユニオン・オルロジェールがドイツでアルピナのブランド名を使用することを禁止したことでした。そのためドイツのベルリンを拠点としたアルピナドイツ支社は、"Deutsche Uhrmacher Genossenschaft Alpina"の頭文字をとった"DUGNENA"が、新たなブランド名とされました。そしてトレードマークとして選ばれたのは、三角形と円が組み合わさった、かつてアルピナが用いていた図像と似たマークでした。

 

 

 

 

新しいブランドはドイツ市場で非常に高い知名度を獲得。アルピナとドゥゲナの間のコラボレーションも戦後継続し、ユニオン・オルロジェールはアルピナブランドのスイス時計をドゥゲナに納入しつつ、ドゥゲナもまた、自社ブランドの時計の製造を続けました。
■ドゥゲナ(DUGENA)の躍進
1917年にリヒャルト・ロートマンを代表者としてドイツ・アイゼナハに設立されたアルピナのドイツ支社、"Alpina Deutsche Uhrmacher Genossenschaft G.m.b.H."は、第二次世界大戦の経過でDUGENAへと生まれ変わり、アルピナとの連携とともに自社ブランドの時計もドイツ市場で大きく躍進していました。

 

 

 

1948年、ベルリンにあったドゥゲナの本社をダルムシュタットに移し、社長を務めるウィリー・テンペルの経営手腕によってドゥゲナは西ドイツにおける信頼性の高い現代的な高品質の時計の代名詞となりました。

 

 

いわゆる"Wirtschaftswunder(戦後のドイツ経済の奇跡)"の時代、1960年代と1970年代は、ドゥゲナにとって大成功の時代でした。婦人用時計と紳士用時計の両方で、このブランドはかなりの評判を得たほか、クォーツ革命に際して高品質のクォーツコレクションで地位を確立し、その機器を乗り切った数少ない時計メーカーのひとつとなりました。1973年にドゥゲナの腕時計はドイツ全土の2,000の時計店で販売されています。
■アルピナ・グリュエン 1929-1937
アルピナ・ユニオン・オルロジエールの成功について、他企業の関心が喚起されたのは自然なことでした。特に重要な協業が実現したのは、1929年のこと。アメリカ・シンシナティのウォッチブランド〈グリュエン〉は、ヨーロッパの販売網を利用するためにアルピナとの合併を希望し、同じくビエンヌにあったグリュエンの工場と協業する形で〈アルピナ・グリュエン・ギルデ S.A.(ALPINA GRUEN GILDE S.A.)〉が誕生しました。
新会社の合理化された生産体制によりアルピナとグリュエンの時計の品質が向上しました。この時期に製作されたハイライトモデルは、エグラー工場で製作された「ドクターズウォッチ」です。後にロレックスがエグラー工場を買収することになりましたが、当時ドクターズウォッチは、アルピナ、グリュエン、アルピナ・グリュエン、ロレックス「プリンス」といった複数のブランド名を冠した形で流通していました。

 

 

 

しかしその熱狂は短期間で終焉を迎えることになります。たとえグリュエンが良質な時計を生産していたとしても、アメリカとは異なりヨーロッパではほとんど知られていなかったのです。さらに、グリュエンはアルピナよりも高い価格で時計を販売しようとしていたことが、ヨーロッパのアルピナ会員の反発を生んでいただけでなく、グリュエンはアルピナの米国会員への製品提供を制限していたこともあって、この協力関係はあっけなく瓦解。1937年に両者は完全に分離します
■1930年代のベストセラー・ウォッチ
アルピナが1933 年に発表した「ブロックウォッチ(BLOCK-UHR)」は最初のベストセラーとなった腕時計で、同年に特許を取得した新しいリューズを搭載した堅牢性の高いモデルでした。この新しいリューズは、埃の侵入を防ぐためにリューズと巻真の間に隙間が生じないよう、スプリングを備えた可動式のスペーサーが内蔵された独自の構造を持っていました。

 

 

 

 

また用意周到なアルピナらしく、この新リューズを万が一紛失したり破損させてしまっても、ディーラーは36本入りの箱に入れて購入することができ、修理が必要になったときにすぐに交換品を供給する用意もしていました。
さらに1938年、スポーツウォッチ「アルピナ 4」を発表しました。「4」という数字は、4 つの決定的な特性を示しています。つまり1.耐磁性、2.防水性に優れた「ジュネーブ製」ケース、3.衝撃吸収性に優れたインカブロック装備、そして 4.ステンレススティールを採用した堅牢なケースです。アルピナは、このスポーティなモデルにキャリバー566、586そして592を使用しました。

 

 

 

 

キャリバー586は、スモールセコンドのサブダイヤルと、中央に配置された "スイープセコンド針 "を備えていました。そして名機の誉れ高いキャリバー592は、その後数十年にわたりアルピナ70(1953年)、スタンダード(1958年)、トロピックプルーフ(1968年)などの成功を収めたスポーツウォッチに使用されてきました。このキャリバー592の高い信頼性は、1948年にスイス・ビエンヌにあるカントン工科大学の時計学校で教育用キャリバーとしてされたことが十分に物語っています。
 

■現代に至るまで
アルピナ・ユニオン・オルロジェールは第二次世界大戦の直後から大きく成長し、数多くのキャリバーの開発や腕時計の製造においてピークに達しましたが、他の数多くの時計メーカー同様、その後来るべきクォーツショックを予測することはできませんでした。1970年代初頭、アルピナブランドの腕時計は市場の抗いがたい新しいトレンドに直面し、無力感に苛まれていました。一方でユニオン・オルロジェールは、それに対して打つ手がありませんでした。長い間筆頭株主であったシュトラウブ家は、忠実なアルピニストとの提携の強みを頼りにしていましたが、1972 年には社名変更と新しい所有者への譲渡を余儀なくされました。
株式の大部分はドイツ・ケルンのゲール兄弟が所有するようになり、その社名もアルピナ・ウォッチ・インターナショナル AG/SAに変更。同時にドイツにおけるアルピナの総代理店も ゲール、ドールマン&レイヤー(Gerl, Dohrmann & Layer)社が引き継ぎました。ブランドの伝統的な製品ラインには、「プレジデント」、「ラ・ベル」、「コントレス」、「シーストロング」などの名前が追加されました。
1977 年には、ゲール、ドールマン&レイヤーグループが、投資家がアルピナをドイツのモンタナ・ウーレン AG の傘下に置くことで、さらなる修正が行われました。この時、アルピナのモットーは「厳選された小売業者のためのブランド」とされていました。以前は明確に定義されていた市場戦略はますます曖昧になり、アルピナを歴史的に強力にしてきた「アルピニスト精神」は徐々に失われていきました。
ブランドには、一貫性も明確さも欠け、そのほとんどがミーハーでランダムな製品で構成されていました。それはアルピナ・ウォッチ・インターナショナル S.A.社のドイツ人オーナーが、地理的にも商業的にも、時計産業のエピセンターであるスイスのからあまりにも遠ざかっており、同時にアルピニストたちからも遠ざかっていたからと思われます。年を追うごとにこのトラディショナルなブランドは、方向性を失ったまま漂流していきましたが、幸いなことにオランダの起業家ピーター・スタスが2002年にこのブランドの眠っている可能性を発見し、再び新生アルピナは日の目を見ることになりました。

 

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