1944年、イギリス国王ジョージ6世に時計部品の説明をする黒縁眼鏡の男性。
彼の名はロベール・レノア。当時《スミス》社のテクニカルディレクターを務めていました。スミス社は戦後初めて英国の国産腕時計ムーブメントの大量生産に成功しますが、その影で彼が大きな役割を果たしてたと言われています。
☞スミスの歴史について
ロベール・レノアという人物
レノア自身に関する情報はそれほど多くはありませんが、以下にその経歴をまとめます。
・フランス生まれ。スイスで時計製造技術を学び、フランスの《エドモンド・ジャガー》社の自動車計器部門で働く。
・1920年に英国におけるジャガー製品代理店の営業不振の改善のため、ロンドンに派遣される。
・1921年、《エドモンド・ジャガー・ロンドン》社を設立。レノアはそのディレクターに就任。
・1927年にスミス社がエドモンド・ジャガー・ロンドン社の大株主になり、事実上の子会社化。同社は1931年に《ブリティッシュ・ジャガー・インストゥルメンツ》社と改名され、レノアはスミス社に雇い入れられる。
・1928年に子会社《オール・ブリティッシュ・エスケープメント・カンパニー》を設立、1931年に本社を《スミス・イングリッシュ・クロックス》と改名すると、スミス社は脱進機の国産化を進める。その中でレノアは一貫してテクニカルディレクターとして尽力する。
・1946年、スミスが国産腕時計ムーブメント”1215”を発表。以降スミスの腕時計に付属する保証書にレノアの名前が記載される。
以上が大まかな彼の経歴です。
スミス・ムーブメントにまつわる誤解
今回ロベール・レノアという人物をテーマに挙げたのは、「ジャガー・ルクルトの技術が、戦後スミスが生み出した英国製の腕時計ムーブメントを可能にした」という誤解を解くためです。「スミスが1930年代末にルクルトの凄腕技術者であるレノアを招聘し、英国独自のムーブメントを開発した」とまで言う人もいますが、何の根拠もありません。当然ながらスイス製のアンクル脱進機などのノウハウは底流にありますが、通称1215(トゥエルブフィフティーン)と呼ばれる彼らのキャリバーは、真に英国製プロダクトとしてのオリジナリティがあるのです。
周知のとおりジャガー・ルクルトは、1937年にフランスの《エドモンド・ジャガー》社とスイスの《ルクルト》社が合併して生まれたブランドです。そもそもその両者が出会ったのは、1903年にジャガー社がスイスの時計職人に対して募集した極薄キャリバーの開発話の際、ルクルト社がその仕事に情熱を持って応じたことがきっかけとなります。
エドモンド・ジャガー社は元々海軍向けのマリンクロノメーターの製造で躍進した企業で、その後モータースポーツ事業を展開し、その車載計器部門にいたのがレノアでした。もともとスイスで時計製造技術を学んだ彼は、テクニカルディレクターとしてジャガーのクロックムーブメントの開発・製造というキャリアを経て、1927年からスミスに移籍します。当然ながらその時ジャガー・ルクルトというブランドはまだ存在していません。
フランスのジャガー社とスイスのルクルト社が英国に共同で設立した《エドモンド・ジャガー・ロンドン》社、そしてその大株主となったスミス社、その後ジャガー社とルクルト社の支援を得てスミスが設立した子会社《オール・ブリティッシュ・エスケープメント・カンパニー》。百歩譲って「ジャガー・ルクルトの技術が注入された」と言うならこの部分かもしれませんが、この工場はあくまでクロックの脱進機(エスケープメント)の製造が目的です。言うまでもなく腕時計のムーブメントとも異なり、その影響は非常に限定的であったと言わざるを得ません。
脱進機の国産化をめぐって
第二次大戦以前のスミスの主なビジネスは、自動車や航空機の計器類でした。その機器に不可欠な脱進機と呼ばれるムーブメントの機構は、スイスの時計メーカー《タヴァンヌ(TAVANNES)》から供給を受けており、技術的にも国内で自社生産するバックグラウンドを持っていませんでした。
ここで、脱進機の重要性に触れておきます。脱進機とは「アンクル」と「ガンギ車」という二つの部品で構成される時計ムーブメントの中枢で、時計の動きを制御する重要な機構です。
http://www.tokeizanmai.com/escapement.html
脱進機の国内大量生産という、ひいては時計製造の国産化へ向かう大きな一歩を実現するためにスミス社が目をつけたのが、1921年に設立されたエドモンド・ジャガー・ロンドン社でした。同社はフランスのジャガー社とスイスのルクルト社の共同出資によるもので、自動車のダッシュボード機器製造の分野で英国において躍進していました。スミスは1927年にこの工場の株式75%を取得、翌1928年にクリックルッドに《オール・ブリティッシュ・エスケープメント・カンパニー》という子会社を設立します。ヒゲゼンマイや受け石といった部品はまだスイス製でしたが、ムーブメントの中枢機構である脱進機の工場を手に入れたことで、結果的に脱進機をゼロから開発するコストと手間を省くことにスミスは成功したのです。
レノアはというと、その旧エドモンド・ジャガー・ロンドン社のディレクターを務めていたこともあり、そのままスミス社に雇い入れられます。しばしば見られる「スミスがロベール・レノアという有能な技術者に目をつけ、彼をジャガー・ルクルトからテクニカルディレクターとして引き抜いた」というレノアありきの説明は、当時のスミスの大局的な動きを無視したミスリードの結果と言えます。しかもそこで製造していたのは旧態依然としたジャガー社のムーブメントのコピーであって、彼はその時点ではまだ新しいムーブメントを開発したわけではなかったのです。
純英国製ムーブメントの開発
しかしながら、レノアの技術者としての腕は間違いなく一流でした。子会社化したジャガー社の受け売りでしかムーブメントを製造していなかったスミスにとって、スイス製に匹敵する腕時計ムーブメントを全て自社開発するという、戦後の一大プロジェクトにおけるレノアの功績は計り知れないものだったと思われます。
板バネ状の直線的なコハゼバネ、二個のビスで固定されるテンプ受け、特徴的な裏押さえといったユニークなパーツを持つCAL.1215は、スイス製ムーブメントとは明らかに異なる、レノア自身の経験と才能が生み出した傑作と言えます。自動車計器の分野でジャガー社、ルクルト社そしてスミス社という時計メーカーに翻弄され紆余曲折を経ながらも、彼は戦後スミスの英国製ムーブメント開発において決定的な仕事を残しました。その後レノアの退任とともにスミスも時計製造事業から撤退、彼は1979年に世を去ります。
※こちらは”SMITHS”のロゴも石数も刻印されない、おそらく最初期に製造されたと思われる貴重な1215。
このようにレノアのキャリアを精査してみると、決して主体的に動いていたとは言えないものの、その存在感は刮目に値します。「ルクルトの技術がスミスの英国製ムーブメントを可能にした」とは決して口には出来ませんが、そのような「伝説」を生むには十分足る人物だったのかもしれません。
《参考文献》
・James Nye, A Long Time in Making: The History of Smiths, Oxford University Press, 2014.
・John Glanville and William M Wolmuth, Clockmaking in England and Wales in the Twentieth Century: The Industrialized Manufacture of Domestic Mechanical Clocks, The Crowood Press, 2015.