あるスミスの腕時計1本に限りなくフォーカスしていく新企画「アバウト・ア・スミス」。
その初回を飾るのは、数多くのプレゼンテーションウォッチを輩出してきたスミスの腕時計の中でも、ボックスや保証書はもちろんのこと、その贈呈のプロセスや式典の開催を含む社員とのコミュニケーションが記された書簡も一緒になって保管されていた1958年の個体。
スミスのベストセラーモデル「デラックス」。その最上級モデルと言われる9金無垢デニソン社製アクアタイトケースを採用し、かつその文字盤はギョーシェ装飾やゴールドのドットインデックス、そして同じくゴールドのクラウンモチーフが配された極めてゴージャスな仕様。言わばスミス至高の一本というリッチな腕時計ですが、そんな高価な腕時計を社員に贈呈していた企業は、僕の知る限りブリストルやフォードといった当時好景気だった自動車メーカーが主という印象でしたが、今回の個体は老舗エレベーターメーカー〈オーチス〉の英国法人が選んだ珍しいものでした。
しかしその腕時計の素晴らしさもさることながら、僕の興味を引いたのはそれと一緒に保管されていた3枚の書簡の内容でした。いずれもオーチス社から表彰者であるアーサー・ウィズダム氏(Arthur E. Wisdom)に宛てたもので、そのうち2通は英国オーチスの社長フレイター(W. A. Frater)からのものです。
まず1959年1月30日に贈られた1枚目の書簡では、これまで勤続35年を達成した社員に金時計を贈呈する慣例を設けていたところ、その対象を他のオーチス関連会社と同様勤続30年超へ拡大することになったため、1958年の時点で32年間の勤続を記録したウィズダム氏に対してその対象となったことが告げられる内容となっています。
つまり1959年にオーチス社内で永年勤続賞の対象範囲の拡大決定が行われたことに起因する受賞の告知ということで、これは社長フレイターから送られた書簡ですが、興味深い点としてウィズダム氏に腕時計か懐中時計かの選択権があり、いずれも同品質のものである旨の記載があります。こういったプレゼンテーションウォッチで懐中時計の例をほとんど見たことがないため、当時はよほどのこだわりがない限り腕時計一択だった様子が伺えます。
続いて2枚目の1959年2月23日付の書簡では、前回の書簡で勤続年数や名前が時計に刻印されるという説明があり、それが仕上がって贈呈の準備が整い次第追って連絡する旨があったことを受けて、ウィズダム氏を含む勤続30年以上の社員達に直接記念品の時計を手渡す式典を同年3月11日に開催するため、その式典へ彼を招待する内容が記されています。ちなみにこの式典に出席ができない場合は購買部の責任者から受け取るようにとの添え書きがあるのも面白い点です。
そしてその翌日2月24日付となる3枚目の書簡では、改めて3月11日の永年勤続賞と記念品贈呈式への招待状という内容で、社長フレイターからのメッセージが添えられています。そのメッセージには「私たちがこれからも長い間一緒にいられることを心から信じています」とあるため、ウィズダム氏は定年退職するのではない、つまり退職記念ではなくあくまで永年勤続賞であるという点が重要で、おそらく他のプレゼンテーションウォッチも基本的に会社が定める永年勤続表彰のルールに基づいて行われていたと思われます。
ヴィンテージウォッチは、当然ながらそのデザインや素材、機械機構について語られることがほとんどですが、過去の所有者がその時計を手にした際のストーリーやプロセスまで包含すると、それはもう何者にも代えられない文字通り唯一無二の存在として強い光を放ちます。
奇しくも66年前の今日、3月11日は、ウィズダム氏がロンドンの英国オーチス本社でこのスミス・デラックスを贈呈された日でした。有名ブランドの腕時計やプレミア・ミリタリーウォッチのメジャーヒストリーばかりが耳目を集めもてはやされる一方で、僕は今回ご紹介したスミスの、ローカルでこぢんまりとした、しかしパーソナルで暖かい魅力に心惹かれます。