今回は先のドイツ買い付けで感じたことを綴っていきます。メインは大聖堂建築とヴィンテージウォッチの共通点について、思うところを書きましたが、かなりの長文です。

10月の買い付けではドイツ・ミュンヘンのヴィンテージウォッチに目的地を絞りました。ミュンヘンは地理的にヨーロッパの中心に位置するため、東はチェコ、ポーランド、南はスイス、イタリア、西はフランス、北はスウェーデンなど、ヨーロッパのあらゆる場所から腕時計が集まる最もパワフルなマーケット。特にコアタイムは広い会場が人で埋め尽くされ、熱気と臭気と香水の匂いがないまぜになった異様な空気で満たされます。

 

 

もちろんイギリスからもディーラーは集まり、時計市に出展しているディーラーだけでなく、彼らからも時計を買うこともできるため、ほぼこの場所で買い付けが完結してしまうことも。

ただ、いかに無数の時計が集まるといっても、それら全てが買いのアイテムというわけでは当然なく、その半分は年代的に中古品と呼ぶべきブランド品、そしてヴィンテージのジャンルでもその大半がリダンや非オリジナル品、そしてコンディションやクオリティで次々にパスして行った結果、僕が欲しいと思えるアイテムに出会えるのはその無数の時計の中でも10本あるかないかというところ。あとは馴染みのディーラーが持ってきてくれたものを買ってその穴を埋めるというのがミュンヘンでの買い付けのリアルです。

ちなみに、advintageでは直に買い付けに行く時以外にも毎月ランダムに十数本の腕時計を仕入れています。ほとんどがイギリス、ヨーロッパの馴染みのディーラーから都度オファーがあるため、銀座店に来ていただければ何らかの新参アイテムに出くわすことがあると思います。

 

 

さて毎度こうやってヨーロッパの時計市に来ては、素晴らしいアイテムとの出会いや失敗、シュリンクし高騰していくマーケットを嘆くという内容に終始します。こういうのは致し方ないところなのですが、今回はもうひとつ、腕時計とはまた別の目的がありました。それは、「ケルンの大聖堂をまた見たい」というもの。

最後にケルン大聖堂を訪れたのはいつだったか覚えてないくらいですが、とにかくその異様な存在感が頭を離れず、いつかまた行きたいと思っていました。しかし普段の買い付けではロンドンを拠点にドイツはミュンヘンだけピンポイントで行って帰ってくるのでそういう機会がなかなかなく、ドイツだけに決めた今回の周遊のチャンスは、ケルンに立ち寄る絶好のものでした。

西洋史学生時代、教会建築に興味があってヨーロッパ各地の大聖堂や修道院を数多く訪れましたが、そのきっかけはたまたま高校時代に建築家だった父の蔵書から教会建築の専門書を見つけて読んでいたことでした。ロマネスク、ゴシックといった初期中世から中世にかけて設計、建造された大聖堂のデザインが、そのすべてにキリスト教化という目的や機能を持つ「装置」であったことに、特に興味をかきたてられました。

おそらくそれは、高校一年の夏に初めてスペインを訪れた時、確かサラマンカの大聖堂で何も知らない当時の自分が実際に肌で感じた、確かに神の存在を感じないではいられないような、人間の五感に訴えかけてくる圧倒的な何かを感じて鳥肌が立つ思いをしたことの答え合わせだったのかもしれません。

 

 

それはとにかく圧倒的。特にケルン大聖堂は、天を目指すかのように垂直方向に高く伸びるゴシック大聖堂の中でも最大のもので、遠くから見るともはや巨大な黒い森。記念撮影をしようと近づこうものなら、その全体を画角に収めるのも至難の業です。それくらい大きい。

聖堂内に入ると、薄暗い空間の中で非常に印象的な上へ、上へと伸びる列柱と、波のように連なる尖頭アーチが目に飛び込んできます。天井は高く、空へ伸びる列柱群がそこでも尖頭アーチを描いて繋がっている。そこはまさに、森の中。採光はステンドグラスのみで、それがまるで木漏れ日のように溢れ神々しく輝いているのです。現在は小さな照明が備えられていますが、かつてはそれすらなく、深い闇と鮮やか光が同居する劇的な空間だったと想像されます。

 

 

たとえば真夏の暑い盛りに大聖堂に入ると、堂内は空調など敷かれていないにも関わらず、すこし肌寒いくらいの冷気を感じます。これはヨーロッパの大陸性気候で夏場でも日本ほど湿度が高くないため、石造りの高い天井を持つ建造物の中は涼しく、屋外の照りつける陽光とのギャップを産んでいて、これによってまた別世界に来たような、あるいは森の民であるケルト人の血を引くヨーロッパ民族にとってどこか居心地の良い空間に入ったような錯覚を、訪れる者に与える効果もあったと思います。

ゴシック式の教会建築は、それ以前の低層で重厚なロマネスク期の教会堂と比べてはるかに高層な建築物となっています。それを実現したのが薄い壁をそれを支えるために考案された数々の技術的な特徴で、先に述べた尖頭アーチと交差リブヴォールトが構造物の重量を下方向の地上部分の柱と外方向へ逃し、フライング・バットレス(控壁、飛梁)という構造物が外壁の代わりに外方向への重量を受け止めています。

 

 

フライング・バットレスの画期的な点は、ゴシック以前のロマネスク教会に見られた分厚い壁と小さな窓という特徴を排し、より薄い壁による教会建築を可能にしたことですが、それはまるで林立する森の木々のような外見を生み、ゴシック特有のこれらの技術によって外壁を薄く作ることを可能にしたことで、さらなる高層建築を実現するとともに、この壁部分にゴシック建築を象徴する大きな美しいステンドグラスを設置することも可能となったのです。

このゴシック教会を特徴づけるステンドグラスに加え、聖堂内に配された無数の彫像や絵画といった、いわゆる教会芸術もゴシックならではの特徴があります。列柱に備え付けられた聖人の彫刻群、そして壁面にはキリストの受難をテーマにした一連の絵画が順に掲げられていますが、これらはほぼ等身大で描かれています。聖堂の中だけでなく、ファサードを飾る彫刻にも同様に無数の彫刻がありますが、これらは単なる飾りではなくキリストの物語を見る者に伝える、いわば「紙芝居」のような機能を持っています。登場人物が等身大に近い大きさで描かれているのは、あたかも見ている人自身がその現場の目撃者であるかのような錯覚を与えるためと言われており、まさに舞台装置と言っても過言ではありません。

 

 

キリスト教の物語を伝えるためにこうした絵画や彫刻を用いることは、当時ほとんど全ての民衆が文盲であった(あるいは教会関係者だけに知が独占されていた)ことに起因していて、これらは美術品というよりもむしろキリスト教化のためのツールでありメディアであったことが指摘されています。

まるで森の中を想起させるような柱の数々、そしてまた、しばしば中世の教会建築に見られる葉や蔓がモチーフとなった柱頭彫刻も、ほとんど森林に覆われていた中世のヨーロッパ大陸の森の中で暮らしていた土着の人々にとって、意図的に彼らが慣れ親しんだ環境に寄せて「デザインされた」ものでした。

こういった特徴はケルン大聖堂だけの特徴ではなく、広く同時代の大聖堂にほぼ共通して見られるひとつの様式美と言えますが、具体的な機能性も帯びていた点で、特に1930年代から40年代のヴィンテージウォッチと似ています。

中でも文字盤デザインは百花繚乱のごとくさまざまな種類があることは周知の通りですが、それらはほとんど必ずと言っていいほど、ある一定のデザイン規則のようなものを踏襲しています。

 

 

例えば夜光塗料が文字盤上に用いられていると、時分針にも必ず夜光塗料が張られているとか、もっと細かいところでは、分針は文字盤外周のミニッツレールの外側のライン上まで必ず伸びていたり。この暗黙のルールは、当時腕時計が時を知るツールとしての役割が現代よりも研ぎ澄まされていたことに起因していて、最近の時間を視認することすら難しいように思えるカジュアルな腕時計の自由なデザインとは極めて好対照と言えます。

このように、教会建築も腕時計も装飾芸術の側面が強いプロダクトに見えて、深掘りしていくといずれも特定の用途のためにデザインされていたという点で非常に似ていると思います。もっと言うと、現代の教会建築も腕時計もそれらのデザインは極めて抽象化され、ほぼ当時の原型をなしていないものが多い点でも共通しています。

advintageのセレクトする腕時計のジャンルはかなり狭く、他店のようなさまざまなニーズに対応する幅広いラインナップとは全く異なりますが、腕時計というプロダクトに期待された機能性とデザイン性が合理的に噛み合っていた、1930年代から50年代の腕時計が豊富です。これは単純に僕個人の好きなジャンルだというのが最大の理由ですが、この時代の腕時計の多くはデザインが恣意的でなく、ゴシック建築のように本来的な機能性と美意識が完璧に融合しているという特徴があり、それが名門ブランドにも比肩する「王道感」の源泉になっていると考えています。

 

 

とりわけほとんど知られていないブランドであれば、なおさらディテールの良さや、あるいは素晴らしいサードパーティ製の外装を持つ美しいデザインが求められます。そのような「知られざる傑作」は今回ご紹介したゴシック建築だけでなく様々なプロダクトとコンセプトを共有していて、味わい尽くすことが難しいほど底知れない魅力を内包しています。

「なぜこの腕時計は良い腕時計か」という問いに対して、ことごとく有名ブランド、マニュファクチュール製だからとか、コンプリケーションのムーブメント、散りばめられたダイヤモンドの数を論う評論の如何に多いことか。ただヴィンテージだからとか一点ものだとか、深い研究なしに美辞麗句でその腕時計を飾るのではなく、丁寧に自分が選んだ1本1本と向き合って対話すること。我慢強くそれを継続することを通じてようやく、様々なストーリーが彼らの口から語られ始めるのです。

それはただ文献を漁るだけでなく、今回の買い付けのようにケルン大聖堂を実際に訪れたりすることで初めて辻褄が合ってくるものでもあり、そうした行動から得られたものを腕時計と一緒に皆様にお伝えできればと思いながら、僕は日々advintageをやっています。

10月の買い付けの旅は、そうしたadvintageという表現の根源的な部分を再確認する良い機会となり、この年の瀬に来年の目標というか、この方向性で引き続き努力していきたいとこの場で宣言しつつ、本年を締めくくる記事とさせていただきます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。