「端正」という言葉が最もぴったりと当てはまるこちらの腕時計。スイスのビエンヌ Bienne(ビール Biel)に存在したウォッチメーカー〈マーク・ファーブル〉が1940年代に手掛けたものです。

マーク・ファーブルと聞いて「はいはい、あれね」とピンとくる人がいたら、その人はかなりの手練れです。それくらい無名だし、そもそも腕時計自体ほとんど残っていないため実物を見たことがある人の方が少ないかもしれない、まさに幻のブランド。advintageでも創業当時から追いかけ続けていますが、過去取り扱った本数も片手で数えられる程度です。

日本においては、過去ほとんど誰も取り上げて紹介することもなかったであろう、このマーク・ファーブルの歴史をadvintageも初めてBrand Storyでご紹介します。

 

 

 

マーク・ファーブルは、1900年頃にスイスのビエンヌで時計師マーク・ファーブルによって設立された時計工房で、元はビエンヌの時計製造協会〈ユニオン・オルロジェール(Union Horlogère SA)〉に所属し、自社でムーブメントを開発・製造していました。

そもそも彼の父アルフレッド・コンスタント・ファーブルが兄弟でスイスのコルモレにおいて創業した時計工房〈ファーブル・フレール〉にマークは在籍しており、1896年には同社のブランドとして「マーク・ファーブル」を登録していました。

その後父の会社が問題を抱えて分裂することになり、その際マーク自身はビエンヌに新たな時計製造工場を設立。これをもって正式にマーク・ファーブル社(Marc Favre & Cie)がスタートすることになります。同社は自社ブランドの〈シヴァ〉を持つシヴァ・ウォッチ社(Siva Watch & Cie.)として知られるようになり、マーク・ファーブル社の高品質な時計は高く評価されました。また同社は先見の明を持って腕時計の可能性を早期に見据えており、1913年には9リーニュのレバー式ムーブメント、1922年には5リーニュから13リーニュのレバー式ムーブメント、さらにはブレゲのヒゲゼンマイを搭載した腕時計を発表しました。同時代に勃発した第一次世界大戦において、ほとんどの兵士が懐中時計を握りしめていたことを鑑みると、これは極めて驚くべきことです。

 

 

1925年頃から、ロベール・マルク・ファーブル、ポール・ファーブル、ジャン・ファーブルというマークの息子たちも事業に参加するようになりました。 1929年の初め、おそらくマークが病に伏したことが原因で、息子ポール・ファーブルが父親の事業を継承すると、まもなく 1930年12月29日にマーク・ファーブルは55歳の若さで亡くなります。

またマーク・ファーブルは、1901年にアルピナが中心となって結成された〈ユニオン・オルロジェール〉(くわしくはこちら)に当初から参加しており、さらに同組合解散後は〈グリュエン・ギルデ〉、その後の〈アルピナ・グリュエン・ギルデ S.A.〉といったアルピナ・グループを支える重要な構成員でした。マーク・ファーブル以外にも、このアルピナを盟主とする時計組合には、かつてロレックスにムーブメントを供給していたことで知られるエグラー社、同社と協業関係にあったグリュエン社、そしてラヴィーナ社、J.シュトラウプ社といった重要なメーカーが在籍していました。

 

 

上の画像はスイス・ビール(ビエンヌ)を中心とするアルピナ・グリュエン・ギルデ所属工房(Gilde)一覧。”Gilde M”がマーク・ファーブル社の工房を示していると思われます。ちなみに”Gilde A”はエグラー社、”Gilde V”はラヴィーナ社(Villeret)、”Alpina S”はJ.シュトラウプ社を示しています。また”Gehause Gilde Genf”とはドイツ語で「ジュネーブのケース・ギルド」を意味しているため、ウォッチケース製造のみ行なっていたA.ヴェーバー社を示していると思われます。そのほかアメリカのシンシナティやニューヨーク、フランスのパリの事務所も掲載されているのが興味深い資料。

 

さらにほとんど知られていませんが、マーク・ファーブルが〈ユニバーサル・ジュネーブ〉と協業し、自社開発したムーブメントをユニバーサルに供給していました。その供給キャリバーは数多く、445、456、447、465、485、495、465、575、580、585、595、761と多種に渡ります。とりわけCAL.485、565、585、595はそれぞれユニバーサル・ジュネーブがCAL.240、258、260、262として自社キャリバー化している点は重要です。

しかしアルピナ・グリュエン・ギルドSA.の解散を契機に、マーク・ファーブル社は1938年9月7日 に同社は株式会社化して独立。その後1953年に、オメガとティソが結成した巨大コングロマリット、SSIH(スイス時計工業株式会社)に組み込まれます。このSSIHはスイスの時計産業関連メーカーを結集し、その生産と流通をコントロールすることを目的として1930年にジュネーブで結成され、現在のスウォッチ・グループへと繋がります。

SSIHの中で、マーク・ファーブルは管理責任者ロバート・マーク・ファーブルによって運営されましたが、1958年に彼が亡くなったことで同社はSSIHの中でもフェイドアウトしていくことに。

最初は星の数ほど数多くの中小時計メーカーがひしめき合っていた1900年代の前半期の、ある種平均的な規模で平均的な終焉の仕方を迎えたメーカーという印象ですが、こうしてその歴史を掘り返してみると、腕時計の黎明期、あるいはそれ以前に腕時計とそのムーブメントの開発に着手していたという先見性、さらに名門ユニバーサル・ジュネーブやアルピナへのムーブメントの供給といった、マーク・ファーブルが演じた役割は極めて特筆すべき重要なストーリーが存在していたことを思い知らされます。

 

実際にマーク・ファーブルが製造した腕時計の名機が揃う1940年代の個体は、いずれも上品でハンサムなルックスが特徴的。中でも自社名義で作られる腕時計は、文字盤にあえて銘を入れないアノニマスダイヤルが目立ちます。そのほか英国国内のジュエラー向けに腕時計のOEMを行なっていたことも確認されていますが、それらもマーク・ファーブルの世界観を持った美しい腕時計たちばかり。ぜひお見知り置きを。